なんだかここ数ヶ月で、何人かの人と対話したのをきっかけに、旅というものの捉え方がガラッと変わった気がする。
国内でも海外でも旅をすることは大好きで。数週間にもわたる長期でも、車やバイクでちゃちゃっと行ける日帰りの旅とかでも。これまで行ってみたい場所があれば時間とお金とタイミングを工面して速攻実行してきたし、おそらくこれからも、それを実現するためのやり方を考えながら生きていくだろう。せっかくこんなにも綺麗な水の星に産まれたんだからな。ここに対してのマインドは何年も前から全く変わっていなくて、とにかく経験が欲しい。まだまだ全然足りない。知らない世界を知りたい。知らない世界に対峙した時の自分の反応を知ってみたい、みたいな気持ちもある。二十歳ぐらいまでは「同じことがひたすら繰り返される生活から逃げたい!」みたいな逃避行的な思いもあったけど、そんな繰り返しを楽しんでいくコツを掴みつつある今はもう、その感情は消えたかな。まあとにかく、死ぬまでにどれだけ自分が経験してない世界を潰していけるかのゲーム、みたいな感覚。
と、ご立派なことを表明しつつも、国内国外に関わらず旅先でやることといえば、現地の人たちとワイワイ話し合って、現地の食事を楽しんで、日帰りじゃなけりゃお酒も楽しんで、ひたすら散歩して、たまには気分で有名な景色、建造物とか礼拝所を訪れて、みたいな。別に冒険家じゃないし、大部分は普通。もちろん知らない世界を能動的に求めに行ってるし、人から見ると俺はどうやら比較的五感がキマッてる側の人間っぽいから、そんな普通の中でも得ている情報は少しばかり多いのかもしれないけど、それでも俺の中では、今までの旅中の行動は遊びとか娯楽の延長線上なのかなという感覚だった。
ただ最近になって人と話している時、ふと旅の話になって、こんなニュアンスの言葉を貰った。
「やってることは一見普通って感じるかもしれないけどね、そんな行動の中でもさ、特に一人旅だったら、飛行機・バス・泊まる所の予約は全部自分でやるわけだし、予約してなけりゃ飛び込みでなんとかするしかないわけだし、次どこの街に移動しようとか、今日は次何しようとか、大きい判断からちっちゃい判断まで全部自分でやってるんだよね。何かトラブルが起きたら解決するのは自分だし、誰も知り合いがいない場所で他人を頼るって選択をするのも自分。だからね、遊びの延長線に見えても、旅っていうのは案外、過酷な状況を自分の力で乗り越えていくことでもあるんだよ。」
「もし恋人でも友達でも同行者が居る時もさ、慣れない環境に立ってる中、ある程度は予定を皆で合わせたりとか、トラブルが起きたら今度は話し合いながら解決していかなきゃいけないよね。こっちもただ一緒にどこかに遊びにいってるだけにしか見えないかもしれないけど、やっぱり色々折り合いをつけながら困難な状況を乗り越えていくって側面もあるんだよ。」
こんな言葉に出会った矢先、たまたま読み返していた『星の巡礼』にこんな言葉が書いてあった。
ペトラス
「旅に出る時は、われわれは実質的に、再生するという行為を体験している。今まで体験したことのない状況に直面し、一日一日が普段よりもゆっくりと過ぎてゆく。ほとんどの場合、土地の人々がしゃべっている言葉を理解することができない。つまり、子宮から生まれてきたばかりの赤子のようなものなのだ。だから、まわりにあるものに、普段よりもずっと大きな重要性を感じ始める。生きるためには、まわりのものに頼らねばならないからだ。困難な状況におちいった時、助けてくれるのではないかと思って、他人に近づこうとするようになる。そして、神が与えてくれるどんな小さな恵みにも、そのエピソードを一生忘れることがないほどに大感激したりするのだ。
同時に、すべてのものが目新しいために、そのものの美しさしか見ず、生きていることを幸せに感じる。だから、宗教的な巡礼は、常に悟りを得るための最も実際的な方法の一つとされているのだ。小さな罪という意味のペカディジョ(peccadillo)という言葉は、道を歩いて行くことのできない傷ついた足という意味を持つペカス(pecus)という言葉から来ている。ペカディジョを正すための唯一の方法は、前へ歩き続け、新しい状況に適応し、その代償として、求めるものに対して人生が豊かに与えてくれる何千何万という祝福の全てを受け取ることなのだ。(以下略)」
『星の巡礼』
旅を娯楽的な側面から捉えていたことが多かったから、こうした自己変容の側面があることは、まだ本当の意味で腹に落ちているわけじゃないけれど。
今の視点で前に訪れた地を踏んでみたいと感じるし、だいぶ人間的に成長してきた今になっても歯喰いしばりながらじゃないと絶対に乗り越えられない過酷な旅をしてみたいな、とも感じている。
