文字を読むということ (2024年7月の日記)

2024/07/01 2024/08/26 日記

言葉や文字を介したやり取りなんか非効率的で、回りくどい行為だと感じる。言葉や文字による意思疎通よりも、イメージ的なやり取りの方が得意だと感じる。心を打ち明けた人間に対しては、目線を合わせた時にふたりを行き交う何かが全てだと感じる。

俺はこんな人間だけどもやっぱり文字を読むことは大好きだから、この何とも相反しそうな2つの行為を両立させる必要がある。ということで特に小説を愉しむ際には、右脳をフル回転させ、茶色く煤けた紙に打ち付けられた一言一句を映像化し、できるものならその映像に匂いや温度、オーラなどをまぶし、それを再吸収するという作業をひたすら繰り返す。

けどこの行為は、文章を速く読み進めるといった観点から見ると効率が悪いかもしれない。気を抜くと一瞬で溶ける有限な時間。それと共にカウントダウンされていく人生で読める本の冊数。辟易しそうになることもあるけど、極上の現在を脳内で創り上げることこそが極上の読書なのであって、そんな時間に対して、過度に加速した時間を混ぜ込むことなど論外。

というわけでこの間の日曜も紅茶を淹れて呑気に小説を読んでいたわけだけど、その時ふと思った。文章から自分の脳内で創り上げる景色は、今まで観てきた映画やアニメ、ドラマなどの映像にかなりの割合で支配されていると。

支配されている、という言い回しを使ったけれど、ここではそれがネガティブという意味では全くないつもり。映画を例に取ると、特濃で凝縮された時間を楽しむことができるし、泣く、泣く、泣く。能動的に興味を持って観た映画が最高だった時の感動は他の何事にも変えられないし、ジャケ観した映画が最高だった時もまた然り。いつでも心の中で引用できる映画のセリフがあると、人生は舌上に紙を忍ばせて街に繰り出した時のような昂揚感に包まれる。そして何と言っても、自分が経験したことのない異世界に没入するという天国のような快感を享受する事ができる。

ただ

この映画を観ることによって得られる未経験の異世界、という最後に辿り着いた天国はなんだか魅力が薄く感じる。干瓢みたい。実態がなんだかよく分からないまま自分の体内に入り込ませてしまったもの、みたいな。そして映画を通して経験したつもりになった異世界という、なんだか現実味の薄いものをベースにしながら小説などの文章を映像化すると、芯の通らないような実態の無いような映像が脳内で完成してしまう。

じゃあ、ここで感じ取ったコアの欠如という違和感の正体は何なのだろうかと考えてみる。

それは、匂いの欠落に他ならない。いや、欠落しているのは匂いだけじゃない。温度や質感、オーラもだ。つまり、例えば砂漠みたいな、自分が今まで3次元世界で経験したことのないような異世界が映画から脳内に入り込んできた時、それは単なる視覚聴覚的興奮のみが引き起こされているに過ぎなくて、嗅覚味覚触覚第六感的な情報は得られていない。それ故手持ち無沙汰な感覚器官は滑稽なことに、隣の友達が食べているチュロスの匂いや、自分が口にしているコーヒーの味、映画館のふかふかした椅子の触感や温もりなどを脳内に送り込んでしまっている。すると小説に砂漠の描写が出てきた時に、映画を通して経験した視覚聴覚的情報しか含まれない記憶を参考にしながら文章を脳内で映像化したところで、ただただ芯の通らない映像が出来上がるのも無理はないよな。

じゃあ、脳内で出来上がった芯の通らない映像に実態感を持たせていくには今後何が必要かというと、やはり自分の体力と脚、時間、その他諸々を酷使して、この世に存在する多種多様な光の反射、香りや味の分子、物の触感、充満するオーラなどを現場で経験していくしかないと思う。『タイ 水牛のいる風景』を読んだ時、脳内では非の打ちどころのない映像が再生され、一文字一文字が体温に溶けて身体に馴染んでいく感覚を得たのは自分がタイの田舎の地を踏んだ経験があるからだし、『アルケミスト』でサンチャゴが砂漠を歩いているシーンを読んだ時、脳内で創り上げた映像がどこかパッとしなかったのは自分が砂漠を経験した事がないからに他ならない。

文章から自分の脳内で創り上げる景色は、今まで観てきた映画やアニメ、ドラマなどにかなりの割合で支配されている。最初の方でこう書いたけど、それらによって支配されている割合を、現場で積み上げた経験によって上から押さえつけられるようになることで、読書というものを極上の営みにまで昇華させることができる。

2022年5月に書いた文章の改稿です。
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